ど素人の不動産屋チャレンジ:夢を掴むまでの全記録

ゼロから不動産のプロへ、夢を追いかけた私のリアルストーリー

【第三話】裁量で生きる:英語教材販売から始まる新たな挑戦

【新たなスタート:自分の可能性に賭けた決断】

お世話になった教材会社を後にし、「自分の裁量で生きる」というテーマを胸に、新たな挑戦へと足を踏み出した。この決断を体裁良く説明するなら、そう表現できるだろう。しかし、実際のところはそんなに美しい話ではなかった。

当時の僕は、毎日同じ作業を繰り返し、売り上げを淡々と積み上げる日々に、どこか物足りなさを感じていたのかもしれない。あるいは、単純に環境を変えたいという衝動に駆られていたのかもしれない。どちらにせよ、「挑戦」という言葉で片付けるには、あまりにも複雑な感情が絡み合っていたのだ。

あの頃の僕の心境は、まるで波打ち際に立つ船のようだった。安定した港を離れ、大海へと漕ぎ出す勇気と恐怖が入り混じる中、荒波に挑む覚悟を決めたものの、その先に何が待っているのかは全く見当がつかなかった。

完全歩合制の仕事に飛び込むことで、報酬も結果も全て自分次第という緊張感が、僕の胸を高鳴らせた。その期待感と同時に、失敗の恐怖が常に背後に付きまとっていた。しかし、そんな不安を抱えながらも、僕は新たな道を歩み始めた。まるで暗闇の中で小さな光を手探りで探し続けるように、自分の可能性に賭けた新たなスタートが、いよいよ始まったのだ。

【小さな子どもたちへの大きなチャンス】

新しい商材は、これまでのどの教材よりも素晴らしいものだった。これを手にした瞬間、僕は心の底から、これが子どもたちの未来を大きく広げるツールになると確信した。英語というスキルは、これからの時代を生き抜くために不可欠なもの。だからこそ、この教材を通じて、小さな子どもたちにそのチャンスを届けられることに、大きなやりがいを感じた。

しかし、今回の挑戦は、これまでとは全く異なるものであった。今回のターゲットは、生まれて間もない赤ちゃん、いや、まだこの世に生まれていない胎児たちだったのだ。出産を控えた親御さんに向けて、これから生まれてくる子どもたちへの期待や、早期教育の重要性を説くというのは、正直に言って、結婚もしていない自分にとっては途方もないハードルだった。

初めて営業に赴いた日、緊張と期待で胸がいっぱいだった。しかし、親御さんたちの反応は、思い描いていたものとは大きく異なっていた。小さな身体に大きめのスーツを着た僕を見て、多くの親御さんが心の中でこう思ったのではないか。「この若造が何を言っているんだ?」と。表面上は丁寧に接してくれるものの、その冷ややかな目つきや、微妙な間の取り方から、彼らの心の中で僕がどれほど軽んじられているかが伝わってきた。

毎晩、自分の部屋に戻っては悔しさに打ちひしがれた。「教材は素晴らしいのに、僕がそれを売れないせいで、子どもたちが英語に触れる機会を失ってしまう」と考えると、胸が締めつけられるような思いがした。何度も何度も自問自答した。もし、もっと年上の、経験豊富な営業マンが来ていたら、この教材はもっと広まっていたのではないか?と。

だが、そんな逆境こそが、僕にとって最大の成長の場となったのだ。毎日、鏡の前で自分のトークを練習し、親御さんたちの心に響く言葉を見つけ出そうと必死だった。どうすればこの情熱を伝えられるのか?どうすれば、彼らにとっての「教育」というものの重要性を感じてもらえるのか?その答えを探し続けた。

そして、少しずつ、変化が現れ始めた。熱心に、時にはしつこいほどに語り続ける僕の言葉が、次第に親御さんたちの心に届くようになったのだ。その過程で、僕は自分を少しでも大人っぽく見せ、信頼感を高めるための工夫を考え始めた。その一つが、ダブルの紺ブレザーを着ることだった。若々しい顔立ちの僕にとって、これが「先生らしさ」を演出する手段だったのだ。

今となっては、あまり見かけなくなった紺ブレザーだが、あの頃の僕にとっては、それが勝負服であり、自信を持つための鎧だった。50代になった今でも、このブレザーを身にまとい続けているのは、当時の苦労と成長を忘れないためだ。

山下昌也の勝負服=紺ブレダブル。それは、僕が乗り越えてきた数々の挑戦の象徴であり、これからも僕の信念を支え続けるだろう。

【「自分の裁量で生きる」を手に入れた変化】

もともと、人前で話すことが苦手で、奥手だった少年がここまで変わることができたのは、一体何だったのだろう?幼い頃の私は、何かを表現することにいつもためらいを感じ、静かな場所を好んでいた。クラスメイトが大声で笑い合う中、私はどこか一歩引いたところから彼らを見つめていた。そんな内気な性格が、時を経て大きく変わることになったのは、「自分の裁量で生きる」という目標を心の底から手に入れたいと願ったからにほかならない。胸の奥に宿ったその強い思いが、私を現在の自分へと変化させる原動力となったのだ。

その当時の生活は、まさに自由の象徴だった。目覚まし時計に縛られることなく、好きな時に起き、好きな時に寝る。朝の光が差し込むリビングでコーヒーを淹れながら、今日の予定を自分で決める。仕事も、自分が望む分だけこなし、その対価として得られる収入も自らの手で操ることができた。まるで、人生の舵を自分で握っているかのような日々が続いていた。

自由な生活は、私にとって一種の夢の実現だった。幼少期には到底手に入れることができなかった高価な時計や車、そしてバイク。手に入れる度に、あの頃の自分に胸を張って見せたいと思った。欲しいものを手に入れる快感と、それに伴う満足感は、私にさらなる成功への意欲をかき立てた。

しかし、物質的な充足感がすべてを満たしてくれるわけではなかった。そんな中、心を通わせるパートナーとの出会いが、私の人生に新たな意味を与えた。彼女と過ごす時間は、これまでの自己満足の世界から、他者との絆へと視点を変えるきっかけとなった。彼女との結婚が決まった時、私は初めて、自分が作り上げた自由な生活が二人のものになることに喜びを感じた。

しかし、その幸せな時間は、思ったよりも短かった。共に築き上げた日々は、3年という短い期間で幕を下ろすことになったのだ。その時の私は、何が間違っていたのか、自分自身に問いかけるばかりだった。自由に生きるということは、自分の選択に責任を持つということ。その重みを、ようやく理解した瞬間でもあった。

自由の代償:保証のない生活と精神的な負担】

結婚生活の終焉を迎えたとき、最大の原因は自分自身にあると痛感した。自由を手に入れるために追い求めてきたものの、その裏には目を背けてきた弱さが潜んでいたのだ。保証のない生活に挑んだ自分は、手に入れた自由に酔いしれていた反面、精神的な支柱を持たないままであった。契約が取れない日が三日も続けば、夜も眠れず、神経は張り詰め、まるで崖っぷちに立たされたような感覚に苛まれた。どれだけの収入を得ようとも、保証のない現実が私の心に不安の影を落とし続けた。

振り返れば、その恐怖と不安が徐々に私の精神を蝕んでいたのだろう。次第に笑顔が消え、常に何かに追われるような日々。安らぎを求めていたはずの結婚生活は、逆に私を深い孤独と絶望へと追い込んでいった。そして、その孤独はやがて、私自身とパートナーとの間に深い溝を生むことになった。

自由の代償は大きかった。手に入れたはずの自由は、私に何も与えてはくれなかった。それどころか、心の中で何かが壊れてしまったのだ。そしてその崩壊は、人間関係にも影響を与え、信頼という大切な絆さえも揺るがす結果となった。やがて、私はすべてを手放す決断を下した。これまで築き上げてきた仕事、夢、そして愛する人との時間。すべてを捨て去り、孤独の中に自分を閉じ込めた。

「自分には何ができるのだろう?」「これからどう生きていくべきなのだろう?」毎日、同じ問いが頭の中を支配する日々が続いた。まるで終わりの見えない暗闇の中をさまよっているようだった。しかし、そんな絶望の中で、ひとつの出会いが訪れる。それは、私にとって新たな人生の扉を開く鍵となるものであった。しかし、その物語については、次回のブログで詳しくお話ししようと思う。


山下昌也の物語は、夢を追い続けることの大切さと、新しい挑戦への勇気を教えてくれる。彼の人生は、まだまだ続いていくのだ。

〜to be continue